
日本人向けの商店街に生まれ変わった1980年代
ベトナム戦争が終結した1975年を機に
ゲート通りの商売の様相も変化。
そして1985年、外観も一変させ、日本人向けの商店街、
現在の沖縄市中央パークアベニューへと生まれ変わる。
アパレル・物販を中心に県内屈指のショッピングセンターへ
Interview from 1980
バッグや財布、雑貨などを扱うたじま屋。
沖縄県内各地にショップを展開するたじま屋の本店がコザにある。
前身は土産物店として1952年にセンター通り(現・パークアベニュー)にオープンした金城商店。
土産物や雑貨を通してコザの街を見つめてきた
たじま屋の創業者金城智江さんの三女にあたる金城絹子さんにお話を伺った。
text / Iori Futenma photo / Daisuke Nakagawa

金城 絹子 たじま屋 代表取締役社長 県内各地にバッグの専門店を展開。ゲート通り(現・沖縄市中央パークアベニュー)にて創業。県内のバッグファッションを牽引してきた。本店は今でも沖縄市中心市街地の一番街アーケード内に所在。 |


通りを盛り上げようというエネルギーに溢れた
金城商店としてオープンしたのが1952年。沖縄のお土産を販売する土産物店として産声を上げました。
当時のコザはとても活気が合って、どうにかしてセンター通りを盛り上げようというエネルギーにあふれていました。父と母は教員でしたが、子供が6人いたこともあって、新しくビジネスをはじめようと一念発起して、学校を辞めたんです。
タクシー会社やガス会社、ホテル経営など様々な事業を起こして、一時期はコザ十字路に映画館も作っていました。その中でもっとも繁盛したのが母のギフトショップです。
本土復帰後には沖縄県民が旅行鞄を求めた
ギフトショップから現在のようなバッグ中心の店に転換したのは本土復帰のタイミングです。
復帰後には沖縄県民がパスポートなしで国内旅行を気軽に楽しめるようになると、旅行鞄やスーツケースの販売をはじめました。
当時は卸店がなくて、那覇の問屋から二次的に購入して販売していたそうですが、たまたま県外からメーカー担当者がやってきて、安く仕入れができるようになったんです。
種類も豊富で安価ということで、バッグが飛ぶように売れたと聞いています。当時はビニールバッグが主流だったのですが、革製の商品を扱ったところ、大ヒットしたそうです。


本国に帰る米兵が沖縄の思い出を求めに
1980年代のコザは「AMMOBOX」「ジーンズショップU」「アメリカ屋」とアパレルショップが次々にオープンしてにぎわっていました。はじめてエスカレーターが設置されたときにはきょうだいと一緒に何回も乗りましたね(笑)。
刺繍店やミリタリーファッションの店も多くて、母も生地をたくさん買い込んできてミシンでハットを売ったり、香港に買い付けに出かけたりしていました。
ギフトショップではアメリカの兵隊さんが本国に帰るときに沖縄の思い出を求めて買い物にきていました。ガラス製品やオルゴールが特に人気だったようです。
大きな変化に合わせて進化
創業当時から今まで、戦争に本土復帰と大きな変化を何度も迎えてきました。そのたびにお客様のニーズや時代が求める商品がなにかを考えて臨機応変に形を変えていったからこそ、今のたじま屋があるのだと思います。
新型コロナウイルスやファストファッションのブームと、今もまた様々な変化の時代です。バッグや雑貨はネットで購入する人も増えて、沖縄からの送料の問題や他社に負けない特色づくりと様々な工夫が必要になります。苦労もありますが、これまでの歴史を次代につなげるように絶えず進化していきたいと思っています。
