1950

 

嘉手納基地の門前に集った1950年代

戦後に設置された米軍・嘉手納基地。

その第二ゲートの前にできたのがコザゲート通り。

そして、対を成すようにできたのがセンター通りで、

現在の沖縄市中央パークアベニュー。

米軍基地からの物資調達や、販売を目的に

沖縄県内外からこの通りに人が集まってきた。

 

 

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Interview from 1950

沖縄市コザは、芸能の町としても知られ、

沖縄民謡からロック、ジャズ、フォーク、ヒップホップ等、

様々な音楽シーンを彩り、スターを生み出してきた。

その源は、戦後、米軍基地の門前町として誕生した事にあるという。

沖縄音楽界の生き字引・備瀬善勝さんにお話を伺った。

出典 / 沖縄市観光物産振興協会「コザソース」

備瀬 善勝

1939年生の音楽プロデューサー。沖縄市コザ発祥の「キャンパスレコード」の主催者であり、「十九の春」や「丘の一本松」をはじめ多くの島唄をプロデュースする、沖縄音楽シーンのご意見番。

戦後沖縄の音楽の発祥はコザ

終戦後、沖縄の人の元気づけ、復興の機運を高めるために有効だったのが、芸能であり音楽でした。

そして、まず沖縄芸能、特に民謡の中心地だったのが、この沖縄市コザでした。基地があり、仕事が豊富にあるという理由から、全県から人が集まり、中には戦後沖縄民謡を支える嘉手苅林昌・小浜守栄・山内昌徳や、当時はまだ若手だった喜納昌永・登川誠仁・玉城安定などが集まり、戦後沖縄の芸能の礎を築いていきます。

時代と共に移り変わったコザの音楽シーン

そして、時代は移り、朝鮮戦争やベトナム戦争を契機に、「紫」「コンディショングリーン」を中心としたコザロックシーンが台頭、また本土復帰運動などを背景に「沖縄フォーク村」が生まれ、沖縄フォークブームも起きていきます。

そして、80年代にはその沖縄ミュージックが本土へも飛び火し、90年代前半のりんけんバンドやビギンなどの活躍、後半になると安室奈美恵やKiroroなど新しい世代が全国的に活躍し、「沖縄は芸能の島」というイメージが定着します。