1970

 

オキナワンロックが席巻した1970年代

ベトナム戦争が始まるとコザの街は米軍兵を相手にした

アジア屈指の歓楽街になっていく。

そこで誕生したのがオキナワンロック。

本場のアメリカンロックをも凌ぐ

ステージを繰り広げた当時のロックバンドは、

たちまち日本や世界の音楽シーンも席巻していった。

 

 

 

Interview from 1970

1970年代に誕生したオキナワンロック。

当時のセンター通り(現・沖縄市中央パークアベニュー)には、

在沖米軍人を相手にした多くのライブハウスやキャバレーがあった。

沖縄市コザを拠点に活躍し、日本・世界のハードロックに

大きな影響を与えたロックバンド「紫」。

そのドラマーである宮永英一氏に当時のお話を伺った。

text / Iori Futenma   photo / Daisuke Nakagawa

宮永 英一

オキナワンロック旋風を巻き起こした伝説のバンド「OKINAWA」「紫」等で活躍。50年現役で活動するロックミュージシャン。初代沖縄ロック協会会長。
現在は、沖縄市中央パークアベニューにある自身のライブハウス「Chibi’s Place CANNON Club」を中心に活動中。

Chibi’s Place CANNON Clubの紹介は「Entertainment」のページにて

戦後最初の繁華街BCストリート

今はパークアベニューという呼び名だけど、昔から住んでいる人間にとっては、やっぱり「BCストリート」のほうがなじみ深いね。沖縄のひとたちは「センター通り」と呼んでいたけど。

アメリカ兵が買い物や食事を楽しんでいて、華やかだったよ。英語はまったくわからなかったけど、「ギブミーマネー」だけおぼえてね。たまに1セントくれたりするんだよ。

沖縄での戦後最初の繁華街といっていいと思う。ぼくは園田で生まれて、ニューコザでずっと過ごしてきて、パークアベニューができた1年後にはコザを出て世界中を旅するようになっていたんだ。その間に街の雰囲気もだいぶ変わったけど、やっぱりここはぼくの故郷だからね。それは変わらない。

ステージでグラスを投げつけられることも

14歳で音楽をはじめたけど、最初はロックのロの字も知らないド素人でね。ベンチャーズにあこがれて楽器を持ってステージに立った。英語の発音もめちゃくちゃだし演奏も下手だったから、客から怒鳴られたり、グラスを投げつけられたりもしたけど、おかげでだいぶ鍛えられたよ。

人種差別も当たり前だった時代で、いさかいもしょっちゅうだった。コザの不良少年で血気盛んだったから、「この野郎、ここは日本だぞ」と思うこともあって、でも彼らのチップで生活するわけだから、子供ながらに葛藤はあったね。

ロック協会初代会長としての挑戦

1967年にキャノンクラブをつくって「OKINAWA」「紫」とバンドを50年以上ずっと現役を続けてきて、90年代はLAでもバンドをやって、今思うことは、コザだけでなく、日本のロックそのものが危ないということ。

ロックの文化を守るために協会を作りたいという相談があってね。98年6月9日に沖縄県ロック協会がスタートして、初代会長になった。協会で一丸となって、ロックフェスのオンライン配信にも挑戦した。今では当たり前だけど、当時はかなり珍しくてね。戦争時代に沖縄にいた経験のあるひとたちが世界中から見てくれた。

ここ数年はコザ復活推進委員会も立ち上げて、コザの歴史を次世代に残すために頑張っているところだよ。

歴史に抗うのではなく歴史から学ぶ

ニューコザの裏街でいろんなものを見て聞いて育って、ある意味ではコザの大きな変化の最初から今までを知っているけど、当時のことを知るひとがすこしずついなくなってきて、「BCストリート」という名前すら聞いたこともないという世代も増えてきてるよね。もちろん「パークアベニュー」という呼び名ではあるけど、やっぱり「BC」の名前は忘れてほしくないんだよ。

米兵や反社会勢力が暴力沙汰を起こしたりもして、暗いイメージもあるけど、その時代のことを知るからこそ、今大事にすべきこともわかってくる。歴史に抗うんじゃなくて、歴史から学ぶことが大事だと思うんだ。そのために、伝えられることは伝えていきたいね。