1960

 

在沖米軍相手の商いが始まった1960年代

米軍嘉手納基地の門前町として、

本格的に在沖米軍人を相手の商売が成り立ち

当時のセンター通りも商店街としての機能も整備される。

夜になるとネオンサインが輝き出し、

通りには米軍人が溢れかえる。

やがてアジア屈指の繁華街へと成長していく。

 

 

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Interview from 1960

沖縄のソウルフードのひとつとして、

県民はもちろん観光客や外国人にも愛されるタコス。

沖縄初のタコス専門店として知られる

1956年創業のチャーリー多幸寿

二代目社長勝田安紀さんに話を聞く。

2020年に亡くなった創業者勝田直志さんより受け継いだ

こだわりと創業当時のコザの街、

そしてコザに住む人々が創り守ってきたフードカルチャーとは。

text / Iori Futenma   photo / Daisuke Nakagawa

勝田 安紀

沖縄初のタコス専門店として知られる1956年創業のチャーリー多幸寿二代目社長。現在は沖縄市中央パークアベニューにある本店と国際通りの那覇店にて伝統の味を提供している。

チャーリー多幸寿の紹介は「Lunch」のページにて

Aサインレストランとしてオープン

ぼく自身、昨年店を継いだばかりで、創業当時のことを詳しく知っているわけではないので、ほとんどが先代から聞いた話なのですが……

1965年にAサインレストランとして八重島にオープンしたのが最初で、1975年にこの通りへ移転したと聞いています。

先代は奄美大島の出身なのですが、地元の先輩がアメリカへ渡り、現地の食文化を学んで、沖縄でレストランをはじめることにしたようです。

マクドナルドの日本第一号店が1977年ですから、50年代にアメリカ風のレストランをオープンするというのは異例中の異例だったと思います。

アメリカの食文化がはじめて日本に伝わった地

当時の日本にはステーキを食べる文化がなくて、最初にその文化が広まったのが沖縄だといわれています。

県外の大学教授が食と文化に関する研究のためにうちの店にきていましたが、アメリカの食文化がはじめて日本に伝わった地域とされているそうです。

アメリカだけでなく、いろんな国の文化が入り混じったのがコザの街で、それは食についても同じです。今でもコザにはインド料理やタイ料理、ベトナム料理など各国の料理が食べられるお店が並んでいますよね。様々な国の文化を受け入れる土壌があるからだと思います。

海外のタコスを日本人向けにアレンジ

沖縄県内にステーキやハンバーガーの店が増えていくなかで、独自のメニューを生み出したいと考えた先代が試行錯誤の末に作り出したのがタコスでした。

当時のアメリカ軍には中南米からの移民も多くて、ベトナム戦争の時代には沖縄にもきていたんだそうです。アメリカのタコスはハードシェルが主流で、メキシコのものは油で揚げないソフトシェルでしたから、その間を取って、ある程度の固さがありもっちりとした食感のオリジナルの皮を作ってメニューに出したところ、飛ぶように売れたそうです。

海外の料理を日本人向けにアレンジしたら、かえって「こんなタコスははじめてだ」と外国人にウケたようですね。

戦争を経験し、食の大切さを実感

タコスは穀類と肉、乳製品のチーズ、野菜がワンハンドで食べられるということで、体に必要な栄養が一度に気軽に食べられるというところも魅力です。悲惨な戦争を目の前で見てきた先代が、食の大切さを考えて作ったメニュー。

うちのタコスはビーフ、チキン、ツナの3種類から選ぶことができるのですが、それもやっぱり、それぞれの宗教や習慣で、牛が食べられなかったり、肉がダメだったりという人も食べられるようにという工夫です。

おかげさまで創業から70年近く続けてきて、昔沖縄に派遣された元兵士が年を取ってもう一度食べにくることもあり、毎年同じ時期に来店するリピーターもいます。これからもこのコザでチャーリーの歴史を守っていきたいと思います。